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ペトロパブロフスク (戦艦・2代) : ミニ英和和英辞書
ペトロパブロフスク (戦艦・2代)[よ, しろ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦艦 : [せんかん]
 【名詞】 1. battleship 
: [かん]
  1. (n,n-suf) warship 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

ペトロパブロフスク (戦艦・2代) : ウィキペディア日本語版
ペトロパブロフスク (戦艦・2代)[よ, しろ]

ペトロパブロフスクロシア語:英語:Petropavlovsk)は1911年に進水したロシア帝国海軍戦艦。後にソヴィエト連邦海軍の戦艦マラート(ロシア語:;英語:Marat)となった。
当初艦名のペトロパブロフスク(ペトロパヴロフスク、ピトロパーヴラフスク)とは、クリミア戦争時のペトロパブロフスクの戦いに由来する。同名の艦船には、日露戦争で沈んだペトロパブロフスク級戦艦ペトロパブロフスク (戦艦・初代)」、アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦リュッツオウ」の後身である「ペトロパブロフスク」(1940年11月2日にドイツから購入、1944年9月1日まで)、ビェールクト型巡洋艦ペトロパブロフスク (大型対潜艦)」(1976年12月29日から1994年5月まで)がある。
マラートはフランスの革命家ジャン=ポール・マラーに因んでいる。
最終的にはラドガ湖に流れ込むヴォルホフ川に因みヴォルホフ()と改名され、大損害から復帰する際、戦艦から砲術練習艦に艦種も変更される。'';英語:Petropavlovsk)は1911年に進水したロシア帝国海軍戦艦。後にソヴィエト連邦海軍の戦艦マラートロシア語:英語:Marat)となった。
当初艦名のペトロパブロフスク(ペトロパヴロフスク、ピトロパーヴラフスク)とは、クリミア戦争時のペトロパブロフスクの戦いに由来する。同名の艦船には、日露戦争で沈んだペトロパブロフスク級戦艦ペトロパブロフスク (戦艦・初代)」、アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦リュッツオウ」の後身である「ペトロパブロフスク」(1940年11月2日にドイツから購入、1944年9月1日まで)、ビェールクト型巡洋艦ペトロパブロフスク (大型対潜艦)」(1976年12月29日から1994年5月まで)がある。
マラートはフランスの革命家ジャン=ポール・マラーに因んでいる。
最終的にはラドガ湖に流れ込むヴォルホフ川に因みヴォルホフ()と改名され、大損害から復帰する際、戦艦から砲術練習艦に艦種も変更される。'';英語:Marat)となった。
当初艦名のペトロパブロフスク(ペトロパヴロフスク、ピトロパーヴラフスク)とは、クリミア戦争時のペトロパブロフスクの戦いに由来する。同名の艦船には、日露戦争で沈んだペトロパブロフスク級戦艦ペトロパブロフスク (戦艦・初代)」、アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦リュッツオウ」の後身である「ペトロパブロフスク」(1940年11月2日にドイツから購入、1944年9月1日まで)、ビェールクト型巡洋艦ペトロパブロフスク (大型対潜艦)」(1976年12月29日から1994年5月まで)がある。
マラートはフランスの革命家ジャン=ポール・マラーに因んでいる。
最終的にはラドガ湖に流れ込むヴォルホフ川に因みヴォルホフ()と改名され、大損害から復帰する際、戦艦から砲術練習艦に艦種も変更される。
==第2次世界大戦以前の艦歴==
1914年、ペトロパブロフスクはロシア海軍最初の弩級戦艦ガングート級戦艦の2番艦として他の同型艦3隻と共に竣工した。外見的にはイタリア戦艦ダンテ・アリギエーリに似ているが、オーストリアのテゲトフ級戦艦を基にしたドイツ式の設計の影響が大きいという説もある。最初は対独戦に参加していたが、ロシア革命によるソヴィエト政府の対ドイツ単独講和により、かつての同盟国である連合国側に攻撃され、1919年8月18日、クロンシュタット軍港でイギリスの魚雷艇(CMB31,88)の雷撃により浸水着底するが、第2次世界大戦時の損害よりは軽く、浮揚修理される。
1921年3月、内戦の大勢が決したにもかかわらず市民生活の改善が行われないことに対し、ペトロパブロフスクの艦上で開かれた乗組員集会において革命の民主化とボリシェヴィキの打倒を求めるスローガンが採択され、同戦艦の乗員ステパン・ペトリチェンコПетриченко(操舵係将校):en:Stepan Petrichenko)、パトローチェフ(主任電気技術兵)の2名が臨時革命委員会委員となった。事態は緊迫化して行き水兵達はクロンシュタットの反乱を起こすが、ミハイル・トゥハチェフスキーがこの反乱を鎮圧した。
赤軍は4000人以上の戦傷者を出し、反乱側は死傷者不明ながら「共産主義黒書」によれば鎮圧後2103人が死刑の判決を受け、6459人が投獄され、8000人の反乱軍兵士がフィンランドへ亡命するという恐ろしい結果に終わった。なお、この反乱鎮圧に主要な役割を果たしたトハチェフスキー、グリゴリー・ジノヴィエフペトログラード・ソヴェト議長、レフ・トロツキー陸海軍人民委員、ラシェヴィチ革命軍事委員会委員、ドィベンコ(ペトログラード地区守備隊指揮官)、ヴィトフト・プトナ(ロンドン駐在武官)、ゲオルギー・ピャタコフといった人々は後に大粛清により非業の死を遂げた。また、フィンランドへ亡命した反乱兵は、後に冬戦争でソ連がフィンランド国境地帯を占領した際に強制収容所へ連行するという厳しい報復の対象となった。
関係者に対する厳しい処分の一方、艦自体は貴重な弩級戦艦として整備改装が行われた。結果としてソヴィエト政権時代に新たな戦艦を国産して長期運用することは出来なかったため、本艦は極めて貴重な存在で在り続けた。1921年3月31日、艦名をペトロパブロフスクからフランスの革命家に因んでマラートと改名(1942年に旧名に戻される)、他の同型艦もガングート (戦艦)→十月革命(オクチャブルスカヤ・レヴォルチャ)、セバストーポリ (戦艦)→パリ革命政府(パリスカヤ・コンムナ)、ポルタワ (弩級戦艦)→フルンゼ(ミハイル・フルンゼ第2代ソ連陸海軍人民委員(国防相))と革命色の強いものに改名されるが、放置されたフルンゼ(旧名ポルタワ)以外はガングート、セバストーポリと旧名に戻される。
1928年から1931年に、2年半かけて近代化改装、これにより艦橋構造物の大型化と第一煙突の屈曲・誘導化で艦型が一新。
1933年8月7日、第2砲塔の爆発事故により68名の犠牲者発生。
1937年5月10日から6月5日、英国のジョージ6世戴冠記念観艦式に参加。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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